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月別アーカイブ: 4月 2014

 

本文と関係なく、佐藤友哉氏のサイン。第1回文学フリマに出展された『タンデムローターの方法論』に書いていただいたもの。奥付には編者の太田克史氏のサインも

本文と関係なく、佐藤友哉氏のサイン。第1回文学フリマに出展された『タンデムローターの方法論』に書いていただいたもの。奥付には編者の太田克史氏のサインも

前述のとおり、昨今では謹呈本も紙片を挟み込むやり方が主流。「謹呈」とプリントした細長い紙をひょろんと挟み込むだけですから、送る手間は最小限です。とうぜん受け取った方も心置きなく売り飛ばせますし、双方にとって嬉しいシステムといえますが、気合いの入った謹呈本では異なるやり方が採用されます。たとえば便せんや原稿用紙にしっかり手紙をしたためて、謹呈本に挟んで贈るというもの。これなら贈る側の気持ちもしっかり伝わりますし、贈られた側にしても手紙を除けてしまえば、これまた躊躇なく売り飛ばせ、両者Win-Winのめでたい仕組みです。しかし、何らかの事情で、挟み込まれた手紙に気づかず古書店に――というケースもなくはない。

手紙が書かれているのがシナリオ作家協会の原稿用紙であるのも興味深いです

手紙が書かれているのがシナリオ作家協会の原稿用紙であるのも興味深いです

左の写真は、20年ほど前に古本屋で入手した『ミステリーの魔術師 高木彬光・人と作品』(※1)というミステリ研究書と、その本に挟み込まれていた手紙です。ご覧のとおり、これは同書の著者・有村智賀志(※2)から某乱歩賞作家(※3)へ宛てた著書謹呈の私信で、おそらくは同書とともにこの某乱歩賞作家さんへ贈られたものと考えて間違いないでしょう。手紙は、為書き署名の類いもない、きれいな本の見返し部分に挟まれていました。古本屋さんが見逃すはずもない場所ですが、古書価はとくだん高くもなく、この手紙も買取値向上には寄与しなかった模様。当方も探していた本だったので、中は見ないまま買って帰って家でびっくり仰天したくちです。

『占い人生論』。これにはサインも為書きもありません(笑)

『占い人生論』。これにはサインも為書きもありません

さて、くだんの手紙によれば、有賀氏はかつてこの乱歩賞作家さんのお宅を訪ね、高木彬光の人生論エッセイ集『占い人生論』(※4)を借用したのだとか。そして、その20年後に高木彬光研究の成果が本になったので謹呈した――という経緯のようです。手紙の記述をみる限りでは、両者の接触はこの1回きりで特に親しい関係というわけでもなさそうで、ですから作家氏が本を処分したのも、まあ仕方ないのかなあと思います。思いますがしかし、私信を挟んだまま流すと言うのはちょっとなあ。くだんの乱歩賞作家さんは、歯ごたえのある本格をお書きになる方だったこともあり、お名前をみた時は少々ショックでした。おそらく何かの拍子に間違って処分本に紛れ込んでしまったのだろう、とは思いますが……そぞろ諸行無常の感が漂いますね。

手紙に書いてほしかった、気がしないでもなく

手紙に書いてほしかった、気がしないでもなく

このように、そのまま古書店に並んでしまうリスクがなくはないものの、取りあえず長めのメッセージを送りたい時は手紙を書くのがふつうのやり方だと思うわけですが……最後に番外的な実例を一つご紹介して終わりにします。左の写真は、樋口卓治さんの『失敗屋ファーザー』という本にいただいたサインとメッセージ。為書きの域を大きく超えた「お礼」を書かれてしまった――もとい書いていただいた署名本です(笑)。ほんの少しだけ辛口の感想を送った結果(※5)でしたが、当たり障りのない賛辞を並べておくべきだったのかなあ、と。まあ、めったにないタイプの署名本なのは確かですし、面白いですよね。がっつり当方の名前も入ってますし古書店に流せるはずもなく、孫子の代まで当家の家宝としていく所存です。

 

※1 『ミステリーの魔術師――高木彬光・人と作品』。高木彬光の研究書というか評伝で、第44回の日本推理作家協会賞(評論その他の部門)にノミネートされています。ただし受賞したのは竹中労さんの『百怪、我が腸(はらわた)ニ入ル 竹中英太郎作品譜』と徳岡孝夫さんの『横浜・山手の出来事』で、残念ながら有賀作品は受賞を逸しています。関係ありませんが、『横浜・山手の出来事』は、横浜の外国人殺人事件を追った素敵に面白い謎解きノンフィクションでお勧めです。
※2 有村智賀志は、中学校の教諭を務めるかたわら「神津恭介ファンクラブ」の青森支部長を務め、この『ミステリーの魔術師』でデビューされた方。他に長短編の推理小説や童話などの著作もあるミステリ研究家で、2001年に亡くなっています。著作はほとんど地方出版社のものなので入手し難そうですが、「甦る推理雑誌」シリーズの『「エロティック・ミステリー」傑作選』に『ライバルの死』という短編が収録されています。これなら比較的読みやすいかな。探せばあるはずなので、こんど読んでみましょう。
※3 この作家さんご自身、高木彬光とはたいへん縁の深い方(こう書けば分る方はもうお分かりでしょうね)で、その関係もあって『占い人生論』なんて異色の本も持っておられたのでしょう。しかし、だとしたら、高木の評伝を書いた高木彬光研究家の有賀氏がこの作家さんを取材していなかったのは、何だか不思議な気がします。まあ、本を借りに行った時に、話は聞いたのでしょうが。
※4 本格ミステリの巨匠である高木彬光氏は易占に詳しく、これはその方面の蘊蓄を活かした人生論エッセイ。同氏が処女作にして代表作の『刺青殺人事件』を占い師に促されて執筆したというエピソードは有名ですが、ほかにも2人の女性を両天秤にかけて占いで選んだり進路を決めたり等々、半端ないエピソードがどっさり。『刺青』のモデル女性に纏わる秘話や探偵作家クラブ内の確執など生々しい話もポロポロ出てきて、下世話な意味でも興味深い本です。
※5 出版社が行う、多くは新人作家さんのプロモーションの一環で、出版前に熱心な読者に件の新刊のプルーフを読ませて感想を募り、良い感じのそれは帯の惹句その他に活用しようという企てがあります。で、その謝礼がわりにサイン本がいただけるという仕組みです。

都筑道夫のサインは、実は当方でなくうちのかみさんがいただいたものです(※4)

都筑道夫のサインは、実は当方でなくうちのかみさんがいただいたものです(※4)

そもそも「古書価」という点からみると、署名本というのはやや微妙な存在です。ブックオフなどのリサイクル系古書店では、作者の署名も汚れの一種と見なされ、買値は逆に下がると聞きますし、ふつうの古書店でもそれに近い邪険な扱いをされることがしばしばだとか。もちろん、古書店の番台の後ろの鍵付きガラスケースに収められる高価な署名本もありますが、1冊数百円の値札を貼られて店頭に並ぶサイン本も珍しくないのですね。著名人への為書き付きの古典的名作の謹呈本であるとか、とびきり有名な作家の希少な古書は別として、謹呈本ならぬ単なる署名本が“署名があること”によって買取り価格アップに繋がるケースは、それほど多くないようです。

言われても何と書いてあるのか分からない、仮面ライダー1号こと藤岡弘、さんのサイン

言われても何と書いてあるのか分からない、仮面ライダー1号こと藤岡弘、さんのサイン

実際、本屋に山積みの大量生産サイン本のそれなど(こういっちゃ何ですが)当方にも真似られそうな、子どもの殴り書き風のサインがしばしばあります。一見して読めない署名も珍しくないし、筆跡どころの騒ぎではないしろものも多々。こうなってくると、本職の古本屋さんにも真贋の判定は難しいでしょう。だからといって、これをいちいち専門家に鑑定させるのもコストがかさみすぎるでしょうし、よほどの場合を除いて、古本屋さん的には、その価値を認めにくくなってしまう理屈です。もちろん例外は多々あるでしょうが、やはり本に記された作家さんの署名は「それを頼んで書いてもらった自分にとってだけ」意味があるもの、と考えるべきなのでしょう。

マンガ家さんはすごいなあ、と見るたび思う、芳崎せいむさんのサインとカット。リクエストに応えて描いていただいたのは『金魚屋古書店』のあゆさんです

芳崎せいむさんに描いていただいたのは『金魚屋古書店』のあゆさんです

署名本とよく似たものに「謹呈本」があります。世話になった先生や友人知己に、著者が贈るアレですね。最近は「謹呈」等と印刷した付箋紙を挟んで済ませることも多いようですが、かつては本の見返し等に「謹呈」と記したうえ(※1)、贈る相手の名を為書きし署名して贈るのがふつうだったとか。まあ、署名本のルーツでしょう。こういう旧タイプの謹呈本では、作者に加え、贈られた側、つまり為書きされた側もビッグネームだったりすると、前述のとおり結構な古書価が付くのだそうです。当方宛の為書き入り署名本なら何冊か持っていますが、そのままではたぶんたいした値がつかないそれらも、当方が何かやらかして超有名になったあかつきには、どどんと値上がりするかもしれませんね。

 

映画監督の大林宣彦さんのサインは、座右の銘「映画は穏やかな一日を創る」付き

映画監督の大林宣彦さんのサインは、座右の銘「映画は穏やかな一日を創る」付き

 

 

日々かみさんの顔色を窺いつつ本代をひねり出すのに苦労する本読みからすれば、謹呈本を贈られる立場は羨ましく思えます。しかし、これもやはり程度問題で、えらい先生になると贈られる本も多く、放置すればたちまち収拾が付かなくなってしまうのだとか。そうなる前に処分するわけですが、問題は為書き付き謹呈本。前述の通りそういう本にこそ古書価が付くのでしょうが、やはり自分宛の為書き付き署名本が古書店の棚に並ぶのは具合が悪いわけで(※2)。実際、為書きの箇所を墨やインク消しで処理した署名本も、幾度か目にしました(※3)。そう考えると、付箋に印刷して挟むだけという現今の謹呈本システムは、贈られる側にとっては福音だったかもしれませんね。むろん、誰も彼もがこれ幸いと売り飛ばしているとは思いませんが。

(すいません、あと少しだけ続きます)

 

 

※1「謹呈」のほか「拝呈」、「恵贈」、「進呈」なんて言葉も使われるようです。

※2 新作の販促活動の一環として行われる著者サイン会では、この為書きに関して、「為書きを入れないサインはお断り」というケースと「為書きは入れません」というケースがあります。ちょうど半々くらいですかね。後者の場合は明らかに「そんな手間かけてられっかよお」という心の声が聞こえますが、前者の場合は「為書き無しだとヤフオク直行だろごるあ」という心の声が聞こえる。ような気がします。

※3 それでも為書き付き署名本が古書店の棚に並ぶのは、誤って処分本に仕分けされてしまったのか、あるいは贈られたご本人が亡くなり遺族が処分した可能性もありそうです。署名があるかどうか、本を開いてみないと分かりませんから。

※4 今はなきジャナ専の夜間で、都筑さんの授業を受けたんだそうでして。あろうことか都築さんの名前も知らず、著作を読んだこともなかったくせに、作家と知って大コーフン。急遽本屋で探し回って見つけた一冊にサインをねだったのだとか。猫に小判とはこのことです。

書店購入のサイン本ですが、「面白みに欠ける」感もありイマイチありがたみが

書店購入のサイン本ですが、サイン自体の「面白みに欠ける」感もあって(ごめんなさい)イマイチありがたみが

最近は大型書店を中心に署名本を置くお店が増えました。こうした書店ではサイン会などのイベントも盛んだし、なかには署名本コーナーを常設して通販まで行っている店もあります。出版社も新刊刊行時に予約を取ってサイン本を直販したりしていますね(※)。大都市圏にお住まいの方なら署名本の入手はもうそれほど難しくないし、若いコレクタもたくさんいます。署名本じたい、もうそれほど珍しくはないのかもしれません。当方のようなオールドファンにすれば隔世の感があります。というのも、実はここだけの話、当方が署名本というものを認識したのは大学生になってから。かの『幻影城ノベルス』の1冊として『11枚のトランプ』が発刊された時のことなのです。

 

版元から買ったものと同じサイン本が書店に平積みされてた時のガッカリ感ハンパない

版元から買ったものと同じサイン本が書店に平積みされてた時のガッカリ感はハンパないです

このとき版元が読者へ通販を行い、その予約時に読者は「作者サイン入り」を希望することができました。似たようなサービスを東京創元社も行っていますが、あちらがサイン本オンリイの通販なのに対し、幻影城は「サインを入れるか入れないか」を読者が選べたのです。まあ泡坂妻夫のサインが入れられるのですから、聞かれるまでもないと、いまなら躊躇なく断言できますが、当時はものの価値が分らない、そのくせ妙に潔癖なへそ曲がりだった当方は「大切な本に字を書き込むのは如何なものか。たとえそれが作者であっても」という謎思考のあげく、泡坂妻夫のサインを拒んでしまった、というスットコドッコイ。モノを知らないというのは、ほんとうに恐ろしい(※1)。

 

イラストを描いてくださる作家さんは結構いらっしゃいますね

イラストを描いてくださる作家さんは結構いらっしゃいます

さあらばあれともあれ。なんやかんやするうち当家の書庫にもささやかな署名本の山ができています。まァ、署名本たって当該頁を開かぬ限りはただの本。色紙みたいに飾られることもなく(※2)地道に本棚に納まっていますが、たまの虫干しでぱらぱらやるとその意外なバラエティに驚きます。実際、署名本といってもいろいろあるわけで。作者が署名だけを書いた本はむしろ少数派で。サインをねだった当方の名を書き添えた、いわゆる為書き付きや、かっこいい落款を押したり日付を加えたり、中には「座右の銘」っぽい短文や絵まで描いてくださる方もいる。また、漫画家さんやイラストレーターさんの場合は、イラストを描いてくださる方もいらっしゃいますね。

 

宛書きは処理したんで分け分かりませんが、座右の銘(※4)に印章と、署名+3点セットが揃って貫録十分

宛書きは消したんでわけ分かりませんが、座右の銘(※4)に落款と、署名+3点セットが揃って貫録十分です

もちろん署名をいただけるだけで有り難いし、嬉しいんですよ。嬉しいんですが、そこはそれ。サインをいただくというのは、大量生産品である書籍に署名を入れてもらうことで「自分だけの一品もの」に仕立てたいという欲望があるんですね。なので、作家さんが手間をかけてくれればくれるほど嬉しい、というのが正直な気持ち。署名だけより為書きがついている方が「自分だけの一品もの」感がありますし、落款があれば大家感も出てくる(※3)、そこへ座右の銘やイラストや決め文句まで書いてあれば楽しさも増します。なんでもその筋では、署名もサインペンよりはペン書きが、ペン書きよりは毛筆書きのものが珍重されるらしい。さすがにそこまでのこだわりは、当方にはありませんが。

(この項続きます)

 

 

 

 

※1 その後、ほどなく神保町通いを始めた当方は、すぐに己が大失態に気づいて臍を噛んだわけですが。後に幻影城から『11枚』に続く泡坂妻夫の新作長編がでた時は、躊躇なく「サインあり」を選んだのは言うまでもありません。

※2 しかし、サイン色紙というのは安手の食い物屋のトレードマークみたいなもので、実際、ああいった色紙を飾ったところで少しも室内の美観向上には寄与しません。むしろ色紙を飾れば飾るほどただひたすらに貧乏臭くなっていくのは不思議なほどです。

※3 実際には、サイン会などで見ていると、このハンコを押印しているのは、たいてい作家さんご自身ではなく、担当の編集者やお弟子さん、奥さま、娘さんであるケースが多い気が。まあ、それでも押してもらった方が嬉しいんですが。

※4「人生は歩く影法師」といえば北方謙三先生ですね。もともとはシェークスピア劇のセリフですが。

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(NHKの連続テレビ小説『花子とアン』のヒロインが村岡花子だと聞いたので、ニーズがあるかなあと思い、古い文章を引っ張り出してきました。2009年1月31日に旧『Junkland LT』に掲載したものです)

モンゴメリの『赤毛のアン』を読んだのは、たしか中学生のころでした。いわずと知れた少女小説の元祖(※1)ですが、なにしろそのころは読書欲が旺盛すぎるほど旺盛なころで、小説と名のつくものなら何でもアリ。あたるを幸い片っ端から読み漁っていたのです。で、『アン』に手を出したきっかけは、「クラスメートの美少女に勧められた」から。では残念ながらなく、『アン』シリーズが「新潮文庫に入っていた」から。というのも当時、当方は「新潮文庫に入っている本は全て良書」という、何か根本的に勘違いした思い込みがあって(※2)。むろん新潮文庫以外は読まないというわけではありませんが、ホームズ、ルパンはもちろん、クイーンの四大悲劇(※3)まで、わざわざこの文庫で読んでいたのです。で、その新潮文庫に、なんか聞いたことのない作家が8作ものシリーズ(※4)を送り込んでいる。これは、と。読まずばなるまい、と。これまた勘違いあふれる使命感に駆られたわけですね。で、一読、たちまちはまりました。とにかく、アン・シャーリーくらいイキイキとしてキャラクタ立ちまくりのヒロインは、空前絶後でしたから。

新潮文庫に収められた8作プラス2冊のシリーズを、どこまで追いかけたのか覚えてはいませんが、4〜5冊は読んだはずです。そして、史上最もおしゃべりで生きる喜びにあふれたヒロイン像とともに、「村岡花子」という、少女小説翻訳家そのものの訳者の名前も記憶に刻み込んだ(大げさ)のでした。それから幾星霜。昨年2008年は『赤毛のアン』完成100周年に当るそうですが、これに機を合わせて出版されたのが『アンのゆりかご』(村岡恵理 マガジンハウス刊)です。副題に『村岡花子の生涯』とあるとおり、これは村岡女史の孫娘さんがお書きになった村岡花子の評伝。恥ずかしながら当方、村岡女史を『赤毛のアン』訳者としてしか認識していなかったので、もっぱら懐かしさだけで手に取った本でしたが、一読ぶっ飛びました。いや、だってね。あの時代に少女小説なんて訳した方ですし、評伝じたい身内の人が書いているわけだし、きっとエーとこの秀才お嬢の、セレブでハイソでラグジュアリーな薔薇まみれの日々が描かれるんであろうなあと。そう思っていたわけですが、ぜんッぜん違ったんだな、これが。

まず、当方がぼんやり想像していたより、村岡女史ははるかに昔のひとでした。生れたのは明治時代。つまり、女性に参政権がなく、高等教育を受ける機会もなかった頃のひとなのです。父親はクリスチャンでハイカラで進歩的、ですがややスチャラカな社会主義者で、戦前の話ですから追われる身。とうぜん家は貧乏ですが、向学への想い止みがたい女史は無理矢理、当時最新のミッションスクールへ進学します。でまた、この学校がすごいのです。教師は全員外国人の尼さんで、学生は選り抜きのお嬢様ばかり。「ごきげんよう」なんて挨拶がリアルで飛び交う真性お嬢様学校です。そんな処へ1人で飛び込んだ極貧給費生が、英語を学び、世界を広げ、友情を築いていく。まさに少女小説か少女マンガかという波乱の青春です。さらに戦争の影に追われ去り行く恩師から『アン』の原書を託され、不倫の恋を実らせ、婦人参政権獲得に尽力し、連夜の空襲下ひと目を忍んで翻訳(※5)を続け——と。一から十までとことん波乱万丈。キャラ立ちぶりも申し分なく、そのままNHKの連続テレビ小説にできちゃいそうな、見事なまでの一代記だったのでした。

そんな調子で終始、圧倒されつつ読み終えた当方は、本を閉じるとすぐ図書館へ出かけました。もちろん『赤毛のアン』を借りにです。ええ、いますぐ読みたくなってしまったのですね。さすがに『アン』は自分の手元にありませんでしたが、図書館なら置いてないはずはないでしょう。そんなわけで、幸い棚に並んでいた1冊を借り出して、当方はおよそ40年ぶりとなる新潮文庫版の村岡花子訳『赤毛のアン』読みはじめた次第。そして、たまげたことに、またちょっとばかり嬉しかったことに、あのとき同様一気に物語に引き込まれ、アンと一緒に泣いたり笑ったりしながらひと息に読み終えたのでした。聡明で心優しく、誇り高く、想像力が慢性的に暴走気味のアンの、なんと生き生きとしていることか。けたたましくも騒がしくも幸福な物語はすみずみまで生命力にあふれ、文章がぴちぴち弾けています。まったく古びてないとはいいませんが、村岡訳は今もたしかに、人の心を打つ瑞々しさと躍動感にあふれる名訳です。そしてこんな幸せな文章が、空襲下の東京で、しかもひと目を忍んで書かれたかと思うと、湧きあがる感慨もひとしお。お勧めです。皆さまも2冊合わせてぜひどうぞ。

※1 モンゴメリ自身は、べつだん少女向け/子供向けに書いたつもりはなかったようです。ところで、今でも少女小説というジャンルは存在するのでしょうか。ライトノベルとは違う気がするし、YAとかジュブナイルという呼びかたもピンと来ない気がするのですが。一方少年小説は、そう呼ばれているかどうかはともかく、存在している気がします。

※2 これが岩波文庫ならまだしも格好がつくんですが。いやたしかに新潮文庫に入っているのは良書だと思いますよ。要は(1)田舎の本屋には岩波文庫はほとんどない (2)角川文庫もたくさん並んでるけど、なんか洒落臭いし通俗だしカバーが安っぽい (3)新潮文庫は古典文学からミステリまでバランスよく揃う (4)カバーも渋くて大人っぽい (5)なんか知的っぽい (6)安い といったあたりが理由でしょう。もちろん上記はすべて「当時」の個人的な印象ですよ。

※3 ただし、掉尾を飾る『レーン最後の事件』だけは新潮文庫で見つけられず、創元推理版を買いました(ひょっとして新潮文庫にはなかった?)。他にクロフツの『樽』やブッシュの『完全殺人事件』とかも新潮でしたね。むろん翻訳物の古典本格はおおむね創元推理文庫で読んでいましたが、新潮文庫に入っているものは、できるだけそちらで揃えるようにしていた記憶がある。小学生の若さで権威主義者?——けだしあきれ返ったすっとこどっこいというべきでしょう。

※4 『アン・ブックス』と呼ばれる正典は『赤毛のアン』から『アンの娘リラ』までの8作品を指します。新潮文庫には他2冊のシリーズ作品(アンが出てこない短編集)があるそうです。

※5 なんせ第2次大戦当時の東京ですから、英語の原書なんて持ってることがばれただけで、手が後ろに回りかねません。

※写真はハワイのこの木なんの木気になる木。プリンス・エドワード島っぽい写真を探したんですが、なかったので、それっぽいのを。それっぽくないですが。